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福野池のほとりにある「震災記念碑」
9月1日が「防災の日」となったのは、大正12年(1923年)の「関東大震災」が根拠になっています。今年は101年目にあたります。
大地震で東京府が廃墟になったことはよく知られていますが、震源域は丹沢から房総南部でしたので東京より上総地域のほうが揺れは大きかったことになります。本震はエネルギーに換算すると「1995年兵庫県南部地震」の約8個分だといいます。11時58分から5分間に、同規模の地震が3回も続き、しかも翌日は勝浦が震源、翌々日は九十九里が震源の大型の余震が襲いかかります。 当時の体験談を直接聞くことが難しくなった今、私たちに警鐘を鳴らす「あるもの」に気づきました。君津市福野地区の「震災記念碑」です。当時の青年団が池のほとりに遺してくれたものです。今回はその記録を読んでいきたいと思います。 |
震災記念碑。高さ171cm×横幅73cm×厚み12cm 基礎含まず |
無風のため鏡面となった福野池。天然の灌漑池 |
ひぶん | |
碑文 |
かいどく | ||
解読 | 碑文解読:雨城古文書同好会 |
やくぶん | ||
訳文 | 碑文訳:雨城古文書同好会 |
大正12年9月1日、巨大な地震が猛然と襲い、伊豆、相模、武蔵、上総下総、安房、州境の山は崩れ、地は裂け、家は倒れ、蔵は崩れ落ちた。加えて火災により無残にも四十万人という多くの民が亡くなり、五十億もの資産を滅失させた。
その損なった被害の大きさは京浜が最大にして、未だ見たことのない非常事態である。余震は昼夜四、五十回もあり、一週間しても止まなかった。 幸いに火災を免れても、火災の現況に驚き、不安でうろたえた。年寄を扶け、幼子を背負い、一村が避難に及んだ。池端の竹林で数日、することもなく過ごした。 また家財は顧みるも無く、客が訪ねていうには、地震の災いは天罰にして、軽はずみを責め、勝手気ままなありさまを咎めるものである。 それは思ったとおりにはいかないけれども、天変は憂いと極めて残忍なこととしるし、多くの人々に促し、反省を与え、目を覚ますよう遣わした。 我々青年は憤りを発して、うわべだけのことを止め、酒食に耽り仕事を怠ることを戒めた。一致協力し一途に勤め、慎ましく務めて、蓄え、気力を奮い立たせ、これを引き締め直して急ぐのみ、着々と取り掛かった。 そのはじめは、俗にいう「禍い転じて福と為す」これの謂れだ。我々がとくに望むことは、いっときの成り行きに託さず有終の美をなすことだ。 大正15年(1926年)3月 |
福野地区は書や漢詩が書庫に残っているお宅が多いそうです。市原側、梅ケ瀬渓谷の日高誠實(のぶざね、1836~1915年)氏の私塾に先々代の方々が通われたこと、あるいは師が福野を訪れた形跡がいまも残っており、この石碑はその子弟たちによって発起されたのではないかと思われます。清廉な文章に心が打たれます。
関東大震災は東京の建物を損壊させました。しかし銀座の歌舞伎座、日本興業銀行ビルは倒壊を免れたそうです。翌大正13年、それらの建物を参考にして市街地建築物法に盛り込みました。時を経て、昭和56年にさらに新耐震設計基準ができましたが、阪神・淡路大震災で、この基準を満たしたビルは持ちこたえています。自然災害に、人間の知恵が勝った事例だと思います。 この石碑の概要は福野自治会が君津市を通じ、国土地理院に報告する予定です。広く後世の役に立つことを望みます。 |
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協力 雨城古文書同好会
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