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小川の御所とは別に第二の行宮を構え、敵に備えていました
遣水(やりみず)の小川の御所(壬申山付近にあったとされる)から御腹川を上流に7、8キロ遡った山中に弘文天皇(こうぶん)はもうひとつの隠宅を作りました。
それは防戦のためではなく、退却のための砦であったようです。今回は「第二の行宮」の伝説の紹介です。 |
■ 御腹川沿いの弘文天皇ゆかりの地名 | ||
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御所塚付近の緑色は耕作地を含めた平地を示す。どのくらいの規模の建屋であったのかは想像 すらできないが、その場に立つと、里人が普請に力を尽くした姿が目に浮かぶ |
おおやつ | |
大谷 |
現在大字名は久留里大谷(くるりおおやつ)という。古くは皇谷と書いていた。集落の上手で御腹川の支流「日出沢」が流れ込む。
御腹川本流沿いに上がれば長者、花立(はなだて)を経て大多喜方面へ抜けることができるが、日出沢から丘を越え、万田野(まんだの)を経れば飯給(いたぶ)に抜けられる。支流方面は極めて目立たない抜け道だ。 |
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彼岸花の咲く久留里大谷の水田 |
いたぶ | |
飯給 |
飯給の地名は千葉の難読地名で有名だが、「里人が弘文天皇にご飯をお出しし、天皇がその地を離れるときにお礼として命名した」ことが由来とされている。 |
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小湊鐵道飯給駅 |
ひでさわ | |
日出沢 |
天皇が沢のほとりで、毎朝の祈願を果たすために、日の出とともに天地の神々に栄運を祈ったところ、不思議にも七日目に東の山から太陽が二つ昇ったという。これが日出沢の名の由来だ。天武と弘文のふたりの天皇が在位していることを表した現象と言われている。
久留里大谷から日出沢に沿って歩くこと30分。日出沢は幅が1メートルにも満たない小さな沢だ。グーグルアースのない時代に、この沢の存在にまず気づく人はいない。 |
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日出沢に沿って道が続く |
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川面から午後の陽を仰いでみた |
ごしょづか | |
御所塚 |
日出沢を遡り川の水が枯れてきたあたりに第二の行宮を造営したといわれる。今でも地元ではここを「皇御所台」または「皇の舘」と尊く呼んでいる。日出沢に沿って谷津を歩いてみたが御所塚の場所は推定できない。沢が枯れた周囲は藪になっているが、左右に迫る斜面は切り立っているので建設は容易ではない。水場からも近く、建造可能な平地を選んだのではないか。 |
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御所塚には日出沢の水を引いた谷津田があった |
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日出沢源頭は枯れ沢になっていた |
なぞのどうくつ | |
謎の洞窟 |
日出沢の源頭近くの斜面に洞窟があり、崩れかけた入口をくぐると、50人は収容できそうな大きい空間があるという。府馬清著「ふるさと上総物語」の記載によれば、内部は崩落で痛んではいるが、洞を進むと3本に分岐していたりと、全容が掴みずらい構造となっているそうだ。
洞窟は万田野まで抜けてるという地元の人もいる。見つけることはできなかったが、方角から思うに北側の斜面にあるのだろう。 弘文天皇軍の臣下、残兵らは洞窟に身を隠し難を逃れたが、その後は付近に帰農した人が多いという。大谷にお住まいの江沢姓、広瀬姓、加藤姓、渡辺姓、朝生姓、万田野の石井姓、杉田姓を名乗る方々はこのときの生き残った子孫だという。 |
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万田野(まんだの)地区の県道160号腺 |
東日本には日本武尊(やまとたける)や源頼朝、平将門など英雄が立ち寄ったとされる伝説が各地に残っています。専門家によれば、流れてきた宗教伝道師らが里人の信用を得、入信者を獲得するために、きっかけとして英雄の作り話を持ち込んだという説を唱える人もいるそうです。
日出沢を歩いてその地勢を見ると、外から来た人はその狭い谷に気づきません。沢を知らずに、都合の良いストーリーをよそ者が描けるわけがないと思いました。 |
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参考文献
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