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天皇は上総に何年お過ごしになったのか
今回は現君津市俵田(たわらだ)の小川の御所があったとされるあたりから御腹川沿いに遡り、弘文天皇ゆかりの地名を巡ってみたいと思います。
伝説ではありますが、今回の順路の内には「年号」が分かるところがあります。天皇が上総に何年お過ごしになったのかはとても興味があります。 |
■ 御腹川沿いの弘文天皇ゆかりの地名 | ||
おばら がわ | |
御腹川 |
勝つ望みを失った弘文天皇は「名もない者の手にかかるよりは」と、「小川村」を流れる川のほとりで切腹自害をされた。
ここを御腹川と呼んでいる。里の言い伝えでは、「深夜に流れが逆流したり、水の色が血の色に変る」と言われている。 |
府馬清(ふまきよし)氏は著書「ふるさと上総物語」の中で、「帝は大谷(おおやつ)あたりにまで追い詰められたのではないか」と自害の場所について推測している。 |
おおあざ はせがわ | |
大字 長谷川 |
水田が開ける小櫃地区の一番上流に位置し、長谷川という大字名として現在まで使われている。
地名の由来は、御所の存在を匂わす地名を避け、従臣長谷川紀伊守(きいのかみ)の苗字をとって長谷川郷としたとのこと。 |
おおたけじんじゃ | |
大嶽神社 |
上総村誌によれば、神社の祭神は従臣の長谷川紀伊守とある。長谷川紀伊守は弘文天皇と運命を共にし、「群がる大海軍を前に天皇の正統を絶叫し腹真一文字に掻捌き、その後腸を川に投げ捨てて果てた」という。なんとも壮絶だ。 |
また、府馬清氏は「帝の最期に伴っていた従者は紀大人(きのうし)だ」としている。
中村翰護(なかむらかんご)氏は「弘文天皇御陵考」の中で、紀大人と長谷川紀伊守は同一人物だと推測している。 紀大人は大友皇子太政大臣任官後、御史大夫として近江朝の政務を取ったことが日本書記に記されている。その後大海人(おおあまと)に密通していたことも書かれていたりして、ほんとうのところは不明である。 社の創建は白鳳14年(西暦685年)と碑に記されている。「白鳳期」は美術史あるいは寺社文化を区分するときに用いる区分で、天皇年紀でいうと白鳳14年は天武13年にあたる。この翌年に天武天皇が崩御し、持統天皇が即位している。 |
おびつがわ | |
小櫃川 |
御腹川を支流にもつ東京湾に注ぐ河川。
明治4年、旧藩士の髙橋常延(たかはしつねのぶ)は黒田直養(くろだなおたか)旧藩知事の命で神祇官(じんぎかん 現在の宮内庁長官)に著述書を提出、そのくだりにこうある。 「(弘文)天皇の御骸は僅かの侍臣が見つけ御櫃(手桶)に納め奉り御所の上の小山に葬った」。里の民は「小櫃では手桶を忌んで使わず手堤を用いる」風習が残る。これが小櫃村、小櫃川の名前の由来である。 弘文天皇が祀られている白山神社(旧田原神社)本殿には、きわめて古い弘文天皇の軍装の木像と、天皇の首を入れたと伝わる手桶が安置されている。 社伝によれば弘文天皇の祟りを恐れた天武天皇が、侍臣を下向させ天武12年(西暦684年)に社殿を造営した。弘文天皇が24歳で迎えた壬申の乱は西暦672年なので、上総に隠棲された期間は12年ほどだと推測できる。 |
こあざ ししゃあな | |
小字 使者穴 |
土地法典で小字として確認できる地名。
天武天皇に命を受けた山辺中納言義家大将軍率いる軍勢は数万と言われた。弘文天皇に投降の勅旨を伝えたのち、将軍の使者が隠れていた言い伝えが残る。 現在、実際の穴は見つからない。現在、この土地の持ち主の屋号は「使者穴」を用いていると伺った。 |
こあざ おうまがたに | |
小字 御馬ケ谷 |
土地法典で小字として確認できる地名。
弘文天皇が兵馬を放牧したところだと言われている。現在は谷津田(やつだ)が広がる。 |
まいだい | |
舞台 |
里人が天皇に舞踊を奉じた場所と言われ川沿いの丘を地元ではこう呼ぶ。
高い方からステージを見下ろされたのだろうか。 |
壮絶な最期をお遂げになった言い伝えが、御腹川、小櫃川の名前の由来でした。
いずれにしても上総でお過ごしになった期間が数年ではなく、10年単位の長きにわたりお過ごしになったことが想像できました。 |
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参考文献
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