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天皇が上総各地を行幸されています
前回に引き続き上総エリアにおける弘文天皇にまつわるエピソードを見ていきたいと思います。
帝(みかど)の置かれたお立場は、唐の侵略から国民を守ること、そのために皇親(こうしん)政治を確立させ強い結束を日本に作ることでした。 豪族諸侯をまとめるためには叔父天武(てんむ)天皇との確執は避けて通れず、上総に隠棲してもなお追われる身に甘んじました。 いつ迫るか分からない敵に備え、地理を詳しく読む必要があったと思われます。天皇は「小川の御所」(現君津市俵田)からたびたび上総周辺に行幸をされています。 |
■ 松丘から久留里までの小櫃川流域に多く残るご足跡 | ||
さんぼんまつ | |
三本松 |
君津市立三本松公園大戸見地区の高台に公園がある(君津市大戸見3293番3)。
ここは江戸時代、亀山郷と松丘郷にまたがる知行地を司る陣屋があった場所で、廃藩置県後は松丘村役場として行政機能を果たしたところでもある。 陣屋は三本松陣屋と呼ばれているため、久留里藩土屋氏、前橋藩酒井氏、川越藩松平氏、歴代の領主にまつわるもののように思えたが、そうではなく、三本松の名は弘文天皇に由来していた。 |
天皇が亀山を行幸された折、今の大戸見地区に立ち寄られ、「松は千年の時を保つものなり」と話し、松の幼木三本を自ら手植えされたという言い伝えが残っている。
また公園内にある名碑によれば「小松三本を植うべし」と民か臣下に命じたという説もあるようだ。 |
しゅぎょうざか | |
修行坂 |
この坂道の奥に進んだ場所は、中世 になって、里見氏が支城を造営し、千 本城と名付けた |
修行坂 大戸見地区に隣接する広岡地区は、JR松丘駅もあるこの地区の中心部だが、駅の東側の山の麓に次のような言い伝えがある。
弘文天皇は、天武天皇軍がいつ迫るか分からないという不安を常にお感じだったが、この山の麓で自害をしようと弱音を吐かれ、いっそ仏門に入ろうと決意した。それを聞いた重臣の蘇我赤兄(あかえ)が「帝の地位を継ぐために生を受けた御身、それを自ら絶つのははなはだもったいない。お気持ちを鎮めて遣水(やりみず)の御所に戻りましょう」と諫めたという。 その逸話を民が言い伝え、山麓の坂道を修行坂と呼ぶようになった。 |
おうもりがわ | |
王守川 |
天皇はたびたび行幸をされたが、亀山にかけては川の段丘が深いので川を渡るたびに帝を背負う必要があった。今は小櫃川と呼ぶが、以前は王守川と呼ばれたこともあった。別名大守川、菰捨(こもすて)川ともいう。現在は支流の名に大森川が残る。 |
うつぼ | |
宇坪 |
坂を下ってきた気弱な天皇を励ますために、従臣長谷川紀伊守(きいのかみ)は滝下で大竹を切りその中にたくさんの矢を入れた。天皇はそれを見て「靭(うつぼ)に等しい筒だ」といい、ここを「うつぼの里」と呼んだ。 |
ひらやま | |
平山 |
それから「はや野」の神崎右衛門のところに立ち寄り、「このような山里にこんな平らなとことは珍しい。もし自分が御位(みくらい)についていたならここを平山の里と名付けようものを」と申された |
かのうやつ | |
叶谷山 |
山越を廻りかけたとき大雨となり、一行は歩行困難となった。天皇は雨の静まるようにと天に祈った。忽ち雨は止み晴れ上がり、祈りが叶ったことからここを叶谷といった。 |
こもすてばし | |
菰捨橋 |
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たてさわ | |
楯沢 |
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こいちぶ | |
小市部 |
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てんのうはら | |
天王原 |
県立君津青葉高校の実習農場の名称に字名を発見できる |
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参考文献
・ ふるさと上総物語(府馬清著 昭和50年 崙書房発行)
・ 小櫃村誌(千葉県君津市小櫃村誌編纂委員会 編昭和53年 千葉県君津市発行)
・ 久留里城誌(久留里城誌保存会編 昭和54年8月)
・ 冊子「小櫃学」(小櫃公民館編 平成30年)
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